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GDP世界3位の豊かな経済を作り上げた日本の戦後

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「戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて 第1回 "高度成長" 何が奇跡だったのか」メモ

 

・1955-75年の間、平均9.1%で20年くらい成長し続けた。1960年に所得倍増計画
・高度成長理論。消費欲と生産意欲。
・経済成長の目的は数字を追い求めることではなかった。

・懲罰から経済成長へ。そして朝鮮戦争で息を経済が吹き返す。
朝鮮戦争特需の終了とともに経済ストップ。

・戦後の人件費は日本は安い。 しかし、官僚が重工業の道を選んだ。
・なぜか。日本人にはその能力はあるし、なんとか取り返したい気持ちを誰もが持っていた。
・戦争が育てていた、東大の技術者たちを活かす。

・自動車を育てるべく、時間稼ぎのために保護貿易を行った。輸入車40%の税金。輸入関税、高率関税。
・中小企業も、育てようと。世界先端の設備などを輸入・導入促進。
・1955年に8.8%。これが高度成長の出発点。

・経済学者の下村治さん。10%の成長が10年続くと主張。
・しかし、誇大妄想のように受け止められた。みんなそう思っていなかった。
・経済企業の成長は、民間企業の設備投資だという結論を出していた。生産意欲は溢れている、あとは企業の設備投資を促す施策をすれば、一気に成長するはずだ。
・産業界の設備投資が、イノベーションに繋がる。

・1958年、下村さんは池田勇人内閣の政策ブレーンとして招かれた。
・それが10年で所得を倍増する、国民所得倍増計画。

・税収の6%にあたる1000億円の大減税を行い、金利を引き下げた。
・これにより、企業は一気に強気の設備投資に動いた。
・人間がやってるのは機械化する。機械がやってるものは自動化する。1960年の頃。

・ここに日本経済に幸運が。1965年に人口ボーナスが。働く世代の割合が極めて高い。
・人口ボーナスは途上国が先進国に推移する時に、一度だけ訪れると言われている。
・企業の大増産と、国内の消費者の大消費。

・世界一勤勉な人が、自由主義経済で行くなら、10年で所得が2倍というのは何でもない。
・1968年に所得が倍増に。実力と幸運。欲しがりません、勝つまでは。
・その後立ち上がった、買って良いんだ。欲しいものは山ほどある。刺激されるものが多すぎる。
・60年から70年で、自動車生産台数は19倍。みんな自動車が欲しいと思っていた。

・石油ショックで、高度経済成長が終わった。
・しかしその後成長軌道に。世界からお金が集まった。

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「戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて  第2回 "バブル"と"失われた20年" 何が起きていたのか」メモ

 

・なぜバブルは生まれ、ふくらみ、弾けたのか。
・85年から一気に株価が上がった。

・石油ショック後、鉄が伸びなくなった。本業が伸びなくなった。高度成長の終焉。
・そのころアメリカは、日本にも金融自由化を働きかけていた。
・低金利だった海外市場でお金を借り、高金利日本銀行に預け、株を購入した。

・80年後半から、銀行から巨額の融資が持ちかけられるようになった。
・それを促したのも、金融自由化。 銀行が不動産業への融資に力を入れていった。
・そのお金で、大量に土地を購入。

・その後、1985年9月にプラザ合意が。背景には巨額なアメリカの貿易赤字があった。日米貿易摩擦は深刻。
・円高誘導、金融緩和を、日本に対して求めた。
・当時日本は強大な経済大国だった。世界一のアメリカが日本に追い越されてしまう状態だった。
・当時アメリカに歯向かうことは、日本にはできなかった。

・86年1月、日銀は金融緩和。公定歩合を立て続けに下げた。それで、銀行の不動産業への貸し出しが加速した。
この頃、日銀内でバブルへの警戒感が高まった。しかし日銀は、その後も利下げを続けた。
・プラザ合意後、円は高くなり、1年で100円ほど高くなった。これで円高不況に。

・日銀内で、これ以上利下げはすべきでないという進言もあった。しかし86年10月、日銀は 更なる利下げに踏み切った。
・円高の進行をおさえることに、日米合意をしたと。 金利はアメリカへの配慮で下げた。
・そして、東京の地下はさらに上がって行った。

・87年10月、NYブラックマンデー。株価急落は、アメリカから世界に伝播した。
・これにより、日銀内での利上げの機運が一気にしぼんだ。2年利上げはしなかった。

・89年終わり、株価は3万8戦円を突破していた。
・年が開け、株価が下落に。地価も急落して行く。銀行の姿勢も一変。

・1979年。Japan as No1 日本の自動車、半導体が世界のトップに立った。
・日本から見ると、アメリカ経済が弱くなったとしか見えなかった。
・だから地価が上昇しても、株価が上昇しても、当たり前だ。そういう神話ができていた。  

・過去20年で、中国はGDP16倍。日本は横ばい。
・90年代サムスンの台頭。中国のハイアールが台頭。油断している間に、中国の企業は成長してきたんだと。
・80年代の中で、気づいていなかったのでは。 メーカーも流通も消耗戦をしていたのが、バブル前後。
そして、わずかな機能差を求める開発に。それは海外では全く求められなかった。高かった。

・2000年代。アメリカ発のITの技術革新。
バブル崩壊直後の経済同友会で議論も始まった。
・終身雇用と年功序列を見直すべきか。生産性を上げるためには、雇用に手をつけざるを得ない。日本的雇用にはコストがかかる。
・90年代は維持できない。

・企業は生産側である。
・2008年のリーマンショックは、株主第一主義。目先の利益を追う機関投資家に、愕然とした。
・株主の不評を買っても、先行投資をする勇気を、経営者が持たないと行けない。
・新しいものに挑戦するのが経営なはずだ。

・人口減少社会の到来。労働力人口の減少、高齢者人口の増加。それにより経済構造は様変わり。
・製造業でないし、従来のサービス業でもないところが、アメリカで伸びている。ようはIT。
・このまま、団塊世代が後期高齢になったら、もう下がって行くしかない。  持続可能性。次の世代に対して、悪いものを残せない。

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